深い深い霧が立ち込める森の中。
深く険しい山道を只ひたすらに進む男女の一行がいた。
その内の一人、先陣を切るのは―・・およそ山歩きには一番適していない格好であろう―・・
着物を着た少女。
と、彼女はその足を止めた。
「鎖月様?」
突然歩みをやめた主に龍雪は首をかしげた。
「ここよ。」
そういって鎖月は目の前に広がる濃霧に覆われた森を指差した。
どうやらここが目的の地であるらしい。
が―・・
「ここって・・・鎖月ちゃん?なぁんにもみえねぇんだけど?」
入り口らしき所は見つからない。
何処を見渡しても霧と森がみえるだけ。
きょろきょろと辺りを見回す冷禅に、叱咤の声を投げたのは例の如く神無だった。
「黙ってよく目を凝らしてみろ、この馬鹿者が。―・・感じぬか?この霧によって隠された
”歪み”を」
促されて冷禅は再び森に目を凝らす。
鎖月の指の先―・・大木と大木の間に僅かにできた獣道。成程。確かによくよくそこを
見つめていれば僅かばかりではあるが大気の揺らぎを感じる。
「然り―・・人間にしては対した結界だ。”隠し里"と呼ばれるだけの所以(ゆえん)はあり
ますな。」
珍しく龍雪も称賛の声を上げている。
「ここは真の”月夜(つくや)の里”への入り口でもあるわ。ここを通らなくては”本当”の
里へは入ることかなわない。―・・そう・・・そう私が決めたのだもの」
最後の言葉は、誰に投げかけることも無く静かに呟かれた。意識せずに出た言葉なの
だろう。
鎖月は大木の間へと足を進めるとその”歪み”に手を置いた。
「―・・我が名は”月夜姫”。開門せよ。」
高い高い音で、鈴の音がなった・・・気がした。
と、たちまちに辺りに景色が変わっていった。
相変わらず森と霧は残ってはいたが、目の前に”門”が現れたのだ。
重い重い木の扉。
左右には何処まで続くかわからない塀が伸びていた。
「これが・・つくやの・・」
葉月が洩らした呟きに被さるように異質な音が辺りに響く。
ギィィ・・・・・・
木の軋む音。
門が内側から開かれていった。
「―・・お待ち申し上げておりました」
女性の声。
門の内から一人女性が姿を現した。
萌黄色の着物が何とも涼しげだ。
鎖月たちから少し距離を置いたところで立ち止まると白髪の混じった頭を深々と下げる。
「今生の間に再びお会い出来る事叶い真に嬉しゅう御座います、”月夜姫”様」
「心配をかけたわ。―・・お久し振りね、”月夜(つくや)”。ただいま」
顔を上げた女性―・・当代の”月夜”は鎖月に向かって満面の笑みをこぼした。
「はい。お帰りなさいませ、月夜姫様―・そして」
”月夜”は鎖月に付き従う従者と三将達へと視線をうつすと再び深々と一礼した。
「貴き月の御方々、このような山深きところにおいでくださり深く感謝申し上げます。
− ‥ようこそ”月夜の里”へ」
*
門をぬけるとたちまちに霧は晴れわたり山と山との間に挟まれるようにして小さな里が
姿を現した。
長閑な田園風景が広がっている。
”月夜”に案内されて鎖月たちは里の中でもっとも大きいであろう、武家屋敷を絵に書い
たような館へと足を踏み入れた。
「これはまた…素晴らしいですね」
館の門を潜りぬけると葉月が感嘆の声を漏らした。
建物に感嘆しているだけではない。
清浄な空気を漂わせるこの里の中心はこの”館”なの だ。
清々しいほどすんだこの里の中で更に清浄な場所−‥まさに聖域といっても過言ではい。
「確かにこりゃすげぇ…俗物にまみれつつあるどこぞの大社とかよりも”密度が濃い”な」
龍雪も神無も口にはださなかったものの僅かばかりにその顔は驚きを隠せていない。
さしずめ”人間ごときがこれほどまでの聖域を作り出したのか,信じられない”といった ところ
か…
鎖月は一同の様子に苦笑すると”月夜”に目をうつした。
「ここもかわっていないわね」
「はい。これも月夜姫様の貴き加護故にございます」
「あなたもかわってないわ。」
「いいえ、大分年をとりましたわ。もうおばあちゃんですもの」
ふふふと軽やかに笑う”月夜”に鎖月も喜びを隠せない顔で首を振った。
「いいえ、かわってない。あなたは今も昔と変わらない光を宿しているわ。ただの器です
もの、外見なんて関係ないわ。」
鎖月のその言葉に”月夜”は肩をすくめて苦笑した。
「貴方様がおっしゃられるとあまり説得力のない話しのように聞こえますわね」
「あら?そうかしら」
旧知の友のように笑いあうふたり。
「−‥姫神様!!」
新たに屋敷の奥から中年女性が姿を現した。
女性は鎖月の姿を目にとらえるとあぁっとその顔を喜びで染めた。
「春子?」
「はい!はいそうです!!あぁ…覚えていてくださったのですね」
「勿論よ。あぁ…大きくなったわね」
十代の少女が遥かに年上の女性にむかってそんな言葉を投げ掛けるその様はなんとも
滑稽ではあったが、二人を見つめる鎖月の瞳は長き時を渡ってきた者の瞳をしていた。
それを少し離れた所で見守る従者と三将は少し複雑な心境であったけとはいうまでもない
だろう。
自分たちの知らない最愛の主の時間。
自分たちが知らない人間と主の絆−‥嫉妬せずにいられるであろうか。
「顔が強張ってるぜ従者さんよ?」
「・・・ふっ−‥くだらんな」
冷禅の軽口を一笑すると龍雪は視線を鎖月へと戻した。
そこには心のそこから楽しく笑う少女の姿がある。
「そうかねぇ〜ほんとは心中穏やかじゃないくせに。まったく強がっちゃって可愛くね〜
‥っていてててて!!!」
冷禅の耳を両脇から二つの手がひっぱった。
「少しは黙っていろ」
「そうそう。お行儀よくしててよね」
「痛い!!イタイって!両耳はやめて!!お願い!!!」
外野が少し騒がしくなったが龍雪は無言のまま顔色もかえずに視線を動かすことは
なかった。
ふいに、その唇が微かに動き言葉を紡いだ。
「・・・・・・・所詮は短き人の命−‥そう…それだけだ」
その呟きを聞いたものはいなかった。
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