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ふと、金木犀の香りに誘われて目を開くと日本家屋特有の天井が視界に入り込んできた。

身体をゆっくりとおこす―・・部屋の中は薄暗い。

障子の向こうから微かに日差しが入り込んでいる―・・朝日だろうか。

いつの間にか訪問着を脱がされ真っ白な寝着に身を包まれ寝かしつけられていたらしい。

どれほど眠っていたのか・・・

「・・・・・・・・眠ってばかりね・・私は。」

そう洩らすと僅かに苦笑も追従してきた。

障子を開けると秋を感じさせる朝のひんやりとした空気が流れ込んでくる。

布団の横に丁寧に折りたたまれ用意されている紫紺の羽織に腕を通すと鎖月は庭へと足を

下ろした。

金木犀が鮮やかに咲き乱れ、辺りに濃厚な甘い香りを撒き散らしている。

もう、こんな季節なのね・・・

時が移り行くのは本当に早いモノだ。

あと少しすれば葉は落ち、大地は白く染まり・・・そして桜の季節がやってくる。

(私は後何回・・・・・あの季節を迎えるのかしらね・・)

金木犀の一枝に手を伸ばしその香りをもっと近くで嗅ごうと顔を近づけた。

濃密な香りが更に度合いを増し―・・むせ返るぐらいに甘い甘い香りが脳に染み渡っていく。

クラリと微かに眩暈すら覚える。―・・甘い香りに酔いしれてしまいそうだ。

カサリ―・・

香りを楽しんでいると誰かが落ち葉を踏みしめ近づいてくる音が耳に届く。

「誰?」

誰何(すいか)する鎖月の言葉に応えるように木陰から一つの人影が姿を現した。

「―・・御前を失礼致します」

現れたのは萩色の着物に身を包んだおっとりとした物腰の老婦人だった。

「おはようございます、"保我"様。お体の調子はもう宜しいのですか?」

久し振りに呼ばれた"保我"という名の"苗字"にピクリと肩を震わせ僅かに自分の顔がこわ

ばるのを感じたものの鎖月はすぐにその表情を笑みで覆い隠すとえぇ・・と頷いた。

「この通り回復しました―・・私のことは"鎖月"と。所でご婦人、貴女のお名前をお聞きしても

?」

「これは失礼致しました、"鎖月"様。私は"秋"と申します。影島 秋―・・左衛門ノ介の妻で

ございます。」

秋は深くお辞儀をする。

「山城の―・・?」

驚いた。あの老人にも妻がいたのか。

いや、確かに妻や愛妾の一人や二人―・・日本の政界を牛耳る男ならばいてもおかしくはない

のだろう・・

だがどうもあの"山城御前"の妻にしては覇気がなさ過ぎる。

何処にでもいそうな"普通"の女性。

(失礼だけど・・彼を見るからにはどうもこの人はタイプのようじゃないきがするのだけれど・・・)

意外といえば意外か・・・

「―・・夫より鎖月様のお世話を承っております。何か御用が御座いましたら何なりとお申し付け

下さいませ」

女中よろしく腰を折る影島夫人。

「えぇ、こちらこそ宜しくお願いしますね、影島夫人」

「秋―・・とおよび下さいませ、鎖月様。―・・所で朝食は如何されましょうか?」

口調もおっとりとした喋り方だ。きっとどこかの財閥の娘だったのだろう・・大切に育てられてきた

に違いない。

鎖月にとって久し振りに"癒される"人種にあったものだから自然と笑みもこぼれてくるし、秋に

対する喋り方も丁寧なものになってくる。

「えぇ、少し―・・いただこうかしら・・秋さん、お願いできますか?」

「はい。すぐにご用意いたしますのでお待ち下さいませ」

影島夫人―・・秋は再び一礼するとくるりと背を向けた。

だが鎖月はその後姿を見送ることはせず呼び止めた。

「秋さん―・・」

「はい?何で御座いましょうか?」

呼び止められたことに眉を顰めることもなく、邪気のない―・・子供のような無邪気な笑みといって

いいほどの顔で秋は振りかえる。

「貴女は―・・私のことをどう聞いているのですか?」

すると秋は少し悲しげな顔で―・・いや気のせいか。笑みはそのままで微塵も崩れてはいなかった。

「深くまでは存じ上げておりません。夫の大切なお客様である―・・と。・・夫が長年探してこられた

"仕えるべき御方"と聞き及んでおります」

「・・・・突如現れた、何処の者かもしれないこんな小娘に頭を下げるのは屈辱ではない?」

「いいえ、滅相も御座いません!」

秋はふるふると首を横に振った。

「―・・鎖月様。確かに私は貴女様方のことをよくは存じ上げません。ですが夫が―・・左衛門ノ介様

が"一生を捧げるべき御方"とおっしゃられているからには私もそれに付き従う所存に御座います。

それに」

それに・・と秋は言葉を続ける。

「―・・何も知らない私でも、鎖月様はとても"特別な方"なのだと・・・此処で感じましたので。」

と、秋は着物の上から胸を押さえた。

「そう・・・」

眼を細めそう頷くと鎖月はそれ以上はなにも尋ねようとはしなかった。

秋が去った後も暫くそこに立ち尽くしていた鎖月はそっと目を伏せ語りかけた。

「―・・とても良い奥方をお持ちのようね」

するといつからいたのか・・・秋が去った方向とは逆の木陰から山城御前が姿を現す。

「あれは私に仕える女の一人に過ぎませぬ。良し悪しは私には計りかねますな」

「あら・・彼女は子を成すための女達の一人に過ぎないとでもいうのかしら?」

呆れた口調の鎖月に、山城御前は顔色を変えることなく頷いた。

「まったく・・それではいつかは罰が当たるというものよ。山城の―・・お前は彼女を愛おしいとは

思ってはいないの?」

「そのような感情は不要というものでしょう。―・・私の心は既に貴女様に捧げております故」

「合間見えたことすらなかった私に、お前は心を捧げているというの?」

「はい」

それだけが真実。それだけが彼の根源。

とでも語るようなその肯定の一言。

それを聞いた鎖月ははぁ・・と一つ溜息をついた。

「・・・・人は本当に愚かね」

「そういう生き物なのです。人は」

老人は再び強く肯定した。

「そう・・そうね。人はそういうものだったわね。」

鎖月は懐かしむように、心のそこから"しょうがない"と諦めたように苦笑した。

でも―・・

それでも―・・

「―・・それでもね、影島左衛門ノ介」

空を見上げれば見事なまでの秋晴れ。

日が山の合間から顔を出し切り全てを照らしていた。

そのとき彼の名前を呼んだのはただの気まぐれか・・それとも意図してのことか・・

「人は誰かに側にいて欲しいものなのよ。―・・それはそれで"愛"と呼ぶのではないかしら?」

一人は寂しい。

孤独は辛い・・

例え"生きがい"としていることがあっても。

例え届かぬ思いを胸に秘め、叶わぬ思いを胸に秘め、只その思いのためだけに生きていたとし

ても。

―・・人はそれだけでは決して生きれない。

だって人は愚かで傲慢で悲しくて哀れで―・・そしてとても愛に餓え愛に溢れた"生き物"なのだ

から。

それ故に人は残酷で

それ故に美しいのだ―・・・・・