九.


キスをされたのだとわかるまでは暫く時間を有した。

「愛しい人・・」

定まらない意識の片隅で微かに警鐘が鳴る。

そして同時に何故か懐かしさも感じた。

この見知らぬ男にこうやって触れられるのはこれが初めてではなかったか・・・?

前に一度・・・

心の奥底でまるで隠されているように沈んでいた"記憶”が奮い起こされる。

古い古い・・遠い遠い記憶。

ずっと自分にかけていたもの。

衝動的にー・・激流のように様々な記憶がおしよせてきた。

数え切れないその中で、私は一つの記憶を探し、選びだした。

それは本能。

"必然”だったのだ―・・

パシン―・・

小気味のきいた乾いた音が響いた。

「無礼者。誰の許しを得て我に触れようとするか」

やっと動いた体は、先程まで動かなかったのが嘘のようにかろやかに動いた。

そして開いた口からは確かに自分の者ではあるが、自分ではない声と言葉が出た。

男が驚きに目を見開いている。

「この身は月の世にて最も貴き御方から創られし神聖なる器。我に触れてもよい者は

我が許しを得た者だけぞ。それをしっての無礼か」

選び出した記憶と現実が重なる。

―・・思い出してはいけない

頭の中に声が響き、ずきりとこめかみが痛んだ。

するとひきずりだした記憶はかすみがかかったように再び意識のそこへと落ちていった。

後に残るのは元の鎖月の意識だけ。

「あ・・・」

動いた自分の手を見つめてみる。

何だだったのか今のは。

自分は何をした・・・・・?

「今のは・・・なに?」

「月夜姫・・」

かすれた声で呟く男にはっとなって鎖月は顔を上げる。

不思議そう―・・いや、むしろ感動している眼差しで自分を見つめてくる男に鎖月は戦慄

する。

「あなたは・・・誰?」

男は弱弱しく聞いてくる鎖月にふっと笑みを綻ばせた。

「私は―・・」

キィィィィィィ―・・

「!?」

鎖月は体をのけぞらせた。

空気がはりつめ息苦しくなる。

遠くから強い力で引っ張られる。

体の力は抜け意識もまた昏睡してくる。

男は崩れ落ちようとした鎖月を抱き寄せた。

「どうやらこの逢瀬は長くは続かないようです。・・あの娘―・・しくじったか・・」

ちっと舌打ちすると男は鎖月の耳元に顔を近づけた。

「こうして再び貴方に出会えたことは運命。天命なのです。今回は邪魔が入ってしまいま

したが必ず近いうちにもう一度―・・貴女をお迎えに参ります」

ぐん―・・っと背中の部分を何かが掴んだ。

離れる。

この器を離れ元の器に帰るのだ。

男の声がどんどん遠ざかっていく。

視界もせばまりあたりはやがて真っ暗闇になっていく。

そして再び鎖月は意識を手放した。




                           *




「戻られましたか?」

「!?」

気付くと目の前には見覚えのある天井と顔があった。

「何処かお体のほうに異常はございませぬか?」

「私は・・何処も・・」

龍宮に背を支えられながら身を起す。

「何が・・・・・・?私一体・・」

うつろな目で辺りを見回すと机やモノが散乱する中、洋子が仰向けで寝かされている

のが目に入った。

「洋子ちゃん!!」

「いけませぬ!まだたたれてはお体に障りますぞ!!」

立ち上がろうとした鎖月をおさえると、龍宮はためらうことなくその体を抱え上げ洋子の

側へとおろす。

「眠っている・・の・・・?」

「はい。元々術など扱ったことがない器に無理矢理力を与えそれを酷使したが故に娘の

器が耐えられなくなったのでしょう。今はもうその力を取り除きましたのでその内に目覚

めることでしょう。肉体にも精神にも後に残るような傷は一切ございません。ご安心を。」

「一体・・・何なの・・?」

鎖月は洋子の顔にかかっていた髪を払うと力なく呟いた。

「わけわかんないよ・・一体何なの・・?これは・・質の悪い夢だわ・・あなたが来てから全

てが変わってしまった・・・私の全てが・・・・・・・っ」

ポタリポタリと涙を流す鎖月に龍宮は優しく・・出会ってから一番優しいのではないかという

ぐらいの柔らかさで語りかけた。

「今のあなたにはまだ全てをお話しても、理解はできないでしょう。ですがこれだけはいえ

ます。」

「・・・・・・・なに?」

「もう元には戻れないのです」

鎖月は涙を流し続けたまま首を傾ける。

「もう・・戻れないの?」

「はい」

「保我の家にも?」

「普通の女の子にも?」

「はい」

淡々と応える龍宮にふぅっと一つの溜息をついてみせる。

「―・・私にあなたと同じ"異物”になれというのね」

「いえ、違います。―・・私と同じ"異物”に戻るのです」

「・・・・・・・・・・そう」

もう鎖月の瞳には涙はない。

もう一度洋子の前髪をなでつける。

「お別れ・・なのね」

「事後の処理は私が致します。姫さ―・・鎖月様には私が用意いたしました屋敷へとお移り

いただきます」

「わかったわ」

鎖月は立ち上がるとまだふらつく体を龍宮に支えられながら洋子に背を向ける。

「龍宮先生・・」

「”龍雪(りゅうぜつ)”と・・」

「え・・?」

「それが私の本当の名にございます」

「そう・・じゃあ、龍雪」

「何でしょうか?」

「私は・・一体何なの?」

龍宮―・・否、龍雪は鎖月を支える手にぐっと力をこめた。

「鎖月様は―・・"月夜姫”様でございます」

「"月夜姫”・・」

口の中で反芻してみる。

美術室をでる間際、今一度中を振り返った。

「さよなら、洋子ちゃん。」