八.



階段を急いで駆け上がり美術室へ急ぐ。

近づくにつれかすかだが血の匂いがした。

龍宮は更に顔を険しくして美術室の扉を勢いよく開ける。

「姫様―・・!!」

無数のキャンパスは教室の中心から放射線状に外側へと倒れ、枝垂桜が描かれてい

たはずのその表面は全て赤色―・・血で染まっていた。

(結界が・・)

鎖月のために施した結界ではあったがどうやらこれを破った"何者か”は人間の―・・生

身の娘を"破り”に使ったらしい。

中央には仰向けに倒れこんでいる鎖月がいた―・・どうやらこれらの血は彼女のもので

はないようだ。

龍宮はほっとする暇も惜しむように鎖月へと近づいていく。

が、ピタリと伸ばされた腕が止まる。

「まさか・・・!?」

「そのまさかよ」

それまで微動だにせず教室の隅で立ち尽くしていた洋子がすっと前に出た。

きっと龍宮は睨みつける。

「娘っ!!御方の御霊(みたま)何処へ連れ去ったか!!」

ここにあるのは体だけだ。

器だけだったのだ。

「安心して。とても安全な場所で信頼のおける人に守ってもらってもらっているから」

「何っ!?」

洋子は方にかかった髪をさらりと払いのける。

「前はね、あなたをあの子にとられるのがいやだったの。私よりも劣っているあの子が、

私を超えるのが嫌だった・・でも違ったのね―・・」

ギンッと洋子の目の色が変わった。

らんらんと憎悪の炎を宿している。

「あなたが私から鎖月を奪っていくのね!!私の大事なあの子を!!

そうよっ!本当はあの子が私よりも素晴らしい子だって知ってた!美しいって知ってた!!

それを知っているのは私だけ!私だけだったのよ!?誰にも知られることのない私だけの

宝物だったのに!!あなたがそれを壊した―・・!!」

髪が風もないのに巻き上がり、黒い霧が洋子の背後から立ち込めてきた。

「渡さない!あなたみたいな異質の存在に私の鎖月は渡さないっ!!」

「ちっ―・・痴れ者が―・・!!」

側においてあったペーパーナイフが数本飛んでくる。

龍宮は鎖月の体を抱くとそれをかわし後ろへと跳ぶ。

カーテンの中に鎖月をくるむとそれに呪をかける。

「鎖月の体に触らないで!!」

今度は彫刻刀が飛んできた。

「ウンッ!」

手で印を組み掛け声を唱えるとそれらは見えない壁に阻まれて落ちていった。

洋子も龍宮と同じように印を組むと今度は周りにあった机や椅子などといった大きな物

をも飛ばしてきた。

龍宮はそれらをかわし、時には踏み台にして洋子へと近づいていく。

「こないで!!」

洋子がヒステリックに叫ぶと飛んでくるものの速度が上がる。

だがそれらも物ともせずあっという間に懐へと入った龍宮は洋子の両腕をふさいだ。

「その力、誰から授かったか!?」

「―っ!!離して!!」

洋子を取り巻いていた黒い霧が更に膨張し、龍宮は反対の壁へと吹き飛ばされた。

途中にあった机などがなぎ倒され壁がへこむ音もした。

たまっていた埃がたちこめ大気がにごる。

洋子は高ぶっていた気持ちを静めるように肩で大きく息をする。

「あっ・・あなたが悪いのよ・・自業自得だわ・・」

「成程」

「!?」

淀んだ大気の中から男が立ち上がるのに洋子は目を見開いた。

「これはどうやら・・・あなたが授かった力をどうやらみくびっていたようだ・・」

龍宮は髪や服に付いた汚れを払い落とす。

「それ相応の力でお相手いたしましょう」







                         *







それは例えるなら羊水の中に漂っている感じであった。

フワフワと浮いている・・体が軽い・・・いいや、まるで体が無い様だ。

しばらくその心地よい空間に浸っていたが突然遠くの方から自分を呼ぶ声がした。

その声の元へいこうと意識を傾ける。

声が近づき、浮遊感が徐々に消えていく。

ふっとその空間からはじき出された。

乳白色と水色を混ぜた色彩の空間だったのに今時分がいる場所は暗い。

あぁ・・何だか体がだるい・・

暗い部屋には蝋燭の僅かな明かりしかなかった。

天井からは黒い垂れ幕がいたるところにつるされている。

もっとよくまわりを見ようと思い―・・そこで気付いた。

体が動かないのだ。

いや、微かには動いている。

動いてはいるが何故かぎしぎしと・・木がきしむような嫌な音がした。

未だ夢見心地の意識の中で動けないこの状況に不安を覚える。

「ようこそおいでになりました・・」

声がした。

その声は先程自分を呼んでいた声でもあり、そして男の声だということを知った。

「突然のことで驚かれたことでしょう。無礼をお許し下さい。しかしあなたを救うためにはこ

うするしかなかったのですよ。あぁ・・それにしても・・・・」

布をかき分け年若い男が目の前にやってくる。

蝋燭の炎で微かに顔が見えるだけであってどうもはっきりとしない。

「再び貴女との逢瀬がかなうことになるとは・・・夢のようです」

あなたは誰?と問いかけようにも口もまともに動かせず声も出ない。

男はそんな状況を知ってか知らずか話し続ける。

「この器では不便かもしれませんがしばしお待ちを。すぐにでもあの娘が貴女の本来の

美しき体をお運びしてくるでしょう」

器・・・?器とはこの奇妙に動かない体のことなのか。

娘・・・?一体誰のことを言っているのか。

頭が混乱する。

男の手が顔に触れた。

しかし、感触も体温も感じることはできなかった。

「貴女の現世(うつしよ)での名は"鎖月”というのですね・・"月に鎖でつながれる”・・か・・

忌まわしい名だ。貴女の魂はいつまでも月に捕らわれたままなのか・・必ずや私がその苦し

みから解放して差し上げましょう」

男の声色に熱がこもってくる。

顔を両手で挟まれ、上向かされる。

男の顔が近づき、感触のない唇が押し付けられた。