瞼をゆっくりと開く―・・あぁ、何だか最近この憂鬱で緩慢な動作にも慣れてきてしまった気がするな、と口元

 に自然と皮肉な笑みがともった。

 灯はない。光もない真っ暗な―・・でも"闇"ではない。薄闇。

 暫くすると目がなれ、うっすらと辺りが見え始めた―・・あぁ私の部屋だ。

 ―・・どうやら自分はまた死に損なったらしい。

 ふとそこでその自分の考えに心の中で首をかしげた。

 "死に損なった"とはまた矛盾したことを思ったものだ。

 陛下の前で笑いながら"死"を否定したのは何日前だった?つい最近ではなかったか?

 全く。まったく何て都合のいいことだとは思わないかリーシェ?

 自分自身に問いかけては見るものの内から帰ってくる返答はなく―・・ふっと悲しく息を吐くとゆっくりとその
 
 身を起こした。
 
 薄闇の中、手探りで枕元にあったランプをさがすと灯を灯した。今はよるだろうか?それとも明け方?

 血に濡れたはずの服は着替えさせられ、口周りや髪にべったりと付着していた血も丁寧に拭われている様

 だった。

 (暑い―・・)

 寝ている間に熱に浮かされたのだろう。

 汗ばむ身体に僅かに不快を感じ眉を顰めると、未だはっきりとしない頭のままリーシェはベッドを降りた。

 ふと気配を感じ、扉の方に目をやると見知った侍女が一人、椅子に腰掛けたまますぅすぅと静かな寝息を立

 てて居眠りをしていた。

 暗くて細かくはわからないが、確かにその顔には疲労が色濃く出ていた。

 夜通しの看病に疲れたのだろうか―・・心底申し訳ないと思いながらリーシェはそっと近づくと薄布をその肩

 にかけた。
 
 起こさないようにと気配を殺して衣裳部屋へと足を忍ばせた。
 
 パサリ―・・と着ていたものを脱ぎ落とすと手近にあったタオルで体の汗を拭った。
 
 再び寝着に着替えておとなしくベッドの中に戻ったほうがいいか?それとも制服に着替えて中断してしまった

 仕事を少しでも片付けるべきか―・・と悩んでいたリーシェは、ふとそこで違和感を覚えた。

 何かがおかしい。体調云々ではなくもっとこう根本的というかなんというか・・・

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 もう一度良く確かめてみる。

 おかしい。いや、おかしい以前の問題だろうこれは―・・

 「え・・・・?」

 寝ぼけていた頭がだんだんと覚醒すると同時に、その思考回路は一時考えることを強制的にストップさせて

 いた。


 ―・・つまりは俗に言う"現実逃避"というやつである。




                                     *




 「一体何の騒ぎです!!」


 時刻は夜が明けるまであと少し―・・といった時である。

 無論、非番のものは皆寝ている時間ではあるが、今、リーシェの部屋の前には沢山の人だかりが出来そこ

 だけがいやに混雑していた。

 その波をかきわけ、騒ぎを聞きつけてやってきた陛下と宰相が部屋の中へと入っていった。

 「東方将軍が目覚めたのですか!?」

 部屋の中には侍医と侍女が何人か・・・何故か衣裳部屋の前で立ちすくんでいた。

 侍女の一人が半ば涙ぐみながらその扉をたたいていたりもした。

 「リーシェ様!!お願いですから出てきてくださいまし〜!!」

 「おいおい。一体どうしたっていうんだ?」

 「あっ―・・!陛下!宰相閣下!!」

 二人の訪れに皆が振りかえる。

 侍女頭と侍医長が一度顔を見合わせると何とも困ったように状況を説明してきた。

 「実は東方将軍殿がお目覚めになられたようなのですが―・・」

 「当直にあたっておりました侍女の一人が物音に気付いてベッドを見ればそこにはリーシェ様の姿はなく・・

 その・・何故か衣裳部屋にこもられたきりでてこられないのです。」

 「はぁ!?」

 「何度も出てきてくださるように呼びかけてはいるのですが・・」

 「リーシェ様〜!おねがいです〜!!ご無事ならせめて一目だけでも!!もう居眠りしませんから〜!!」

 悲痛な侍女の叫びがきこえるものの返答はない。

 「まさか中で倒れているのではないでしょうね?無理にでも扉をこじ開けて―・・」

 「いや〜・・それは無理だろうな。」

 「陛下?」

 「宰相閣下・・どうやら東方将軍殿はこの中で結界を張られているようでして・・無理にこじ開けることが出来

 ないのです。」

 「何ですって!?」

 そんな阿呆な話がありますか!?と宰相が仰天していると遅れてほかの二将軍とセスがやってきた。

 「むぅっ・・・何だコレは・・!?何故このような場所に結界が!?」

 「その上展開範囲が局地的だから二重三重と・・・強度が上がっているな。」

 入ってきた途端、目の前に展開する結界を見たハロルドとバディは思わず苦い声を上げた。

 「全く人騒がせな・・・あの中にアレがいるのですか?」

 「おいリーシェ!!無事なのか!!返事をしろ!!」

 ハロルドの馬鹿でかい声が響く。

 だがそれには魔力が込められており―・・多少周りには公害的な騒音に聞こえるかもしれないが―・・少しし

 て中から声が聞こえてきた。

 「ハッ・・・ハロルドですか!?」

 慌てたような声が中からした。―・・リーシェだ、どうやら無事のようだ。

 「リーシェ!!無事なのですね!!コレは一体どういうことなのですか!?」

 「そうだぞ〜リーシェ。―・・とりあえず体の調子はどうなんだ?」

 「―・・!?宰相閣下に・・・陛下もいらっしゃるんですか!?え?あっあぁ体調はもうバッチリ大丈夫ですよ!

 !えぇ皆さんのおかげですこぶる快調―・・あぁっそうじゃなくって!!というか何か気付けば沢山の方がい

 らっしゃいませんか!?だっ大丈夫です!!何でもないんで少しそっとしておいてください!!!!」

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なぁ、ハールウェイ。あいつ絶対おかしいよな?」

 「えぇ・・今までの基本シリアスな展開を続けてきたこの話を無視した慌てぶりですね。これはただ事ではあり

 ませんね。」

 ひそひそと会話を続ける二人に成り代わって今度はハロルド、バディ、セスが説得にはいる。

 「リーシェ様!!大丈夫ならここを開けてください!!お願いです!」

 「あぁぁぁぁぁ開けちゃ駄目です!!駄目ですよセス!!これは命令です!!」

 「断固拒否します。」

 「なんて強情な・・」

 「強情なのは貴様のほうだろうが!!さっさとここを開けろ!!」

 「そうだリーシェ!!何ともないならちゃんと姿を見せないか!お前何か様子がおかしくないか?」

 「おぉぉおかしくなどないですよ―・・だから開けちゃ駄目ですって!!何無理矢理押し開けよううとしてるんで

 すかバディ!!」

 「貴様があけないからだろうが!!ハロルド手伝え!!―・・こら貴様!!結界を強めるな!!」

 「お願いですから侍医たちに一度見てもらってくださいリーシェ様!!」

 3対1の攻防戦が続く。

 「一体どうしたのでしょうねリーシェは・・何かひどく慌てているような・・・・・・・・・・・・・・・・陛下?」

 「・・・え?あぁ、そうだな」

 「・・・・・・・・陛下。何故目をそらしたのですか?」

 「なっ・・何をいうんだハールウェイ。俺がいつ」

 「何か思い当たることがあるのですね?」

 「・・・・・」

 「あるんですね。」

 「いや・・なんというか・・」

 「陛下。私の目を見ていってくださいね。」

 「ぐっ・・」

 ハールウェイに鬼のような形相に陛下は息を詰まらせるとごにょごにょと話し始めた。

 その後ろではバディとハロルドが本気で扉を破壊―・・いやもとい、無理矢理こじ開けようとしている。

 「まぁあれだ。副作用ってやつだな。リーシェは―・・」

 ベキッ―・・バキッー・・と木の軋む音と火花の散る音が混ざった音が響く。

 「なっ―・・そのようなことが・・・しかし成程。陛下が昨夜行われていた治療でいくならば理論的にはそうなり

 ますね。」

 「まぁあいつにとっては予想外だろうけど、決して悪いことではないさ―・・とりあえず今はアレを止めた方がい

いと思うぞ。俺は。」

 「あっ!しまっ―・・!?ハロルド、バディ!!いけませんよ今開けては―・・!!」

 しかし宰相の声は虚しくも・・・一呼吸ばかし遅かった。

 バリバリバリバリバリバリ―・・!!!!!!!!

 轟音を立てて扉がこじ開けられた。

 部屋の外では無意味に歓声が上がっている。―・・そして

 「リー・・・シェ・・・・?」

 誰が呟いたのか。

 衣裳部屋の中にはうずくまるように背を向けて座り込むリーシェがいた。いたのだが―・・

 「あーあ。全く焦りすぎだっつーの。」

 目を点にする一同を尻目に陛下はリーシェに近づいていくとその身体を覆い隠すようにシーツをくるりとまい

 た。

 シーツにまかれる直前―・・コートで隠してはいたもののそのたわわにあふれる胸と、少しばかり小柄になっ

 たその身体には大きすぎるコートの端からはみ出た足は、紛れもなく女性と呼べる姿であった。






                                    *





 部屋の外にいた野次馬達が追い払われ、今、部屋の中にいるのは陛下、宰相、バディ、ハロルド、セス、そし

 て侍医長と侍女頭―・・そして少しばかりぶかぶかになった軍服に着替えなおしたリーシェの姿があった。

 「よし、これで静かになったな―・・まぁそれで早速本題に入るわけだが」
 
 一同の顔は固い。

 陛下の声に皆が皆、耳を傾けていた。

 「リーシェの体が月の満ち欠けに関係なくして性別が固定されたのはいわゆる"副作用の産物"というもの
 
 だ 。」

 「副作用・・ですか?」

 リーシェは陛下の言葉を口の中で反芻させる。

 ―・・副作用。

 満月の日に変化していた女性体とは又違う、どこからみても女性だといえるこの姿が副作用だという。

 月に左右され性転化していた時は女体であれ男体であれ体格の差はほとんどといっていいほどなかった。
 
 中世的な外見はそのままに、肉の質が若干かわることぐらいだし―・・ほかに顕著な変化といえば満月と新

 月のたった二日間の時にのみはっきりとわかれる生殖器の違いだろうか。

 だが今はどうだろう?

 女体化しても申し訳程度に膨らんでいたはずの胸は今ではみただけで女性の胸といえる大きさだ。

 今までとは違った不自然な重みがある。

 「そうだ。―・・あのまま処置を施さなかったらお前の命はあと半日と持たなかっただろうな。」

 半日―・・。

 もしかしたら今、自分はここに既に存在していなかったかもしれないという事実。

 背筋にぞくりと走るモノがあった。

 「東方将軍殿の魔力回路は限界に来ておりました。糸が張り詰めて切れる寸前―・・切れれば最後、体内に

 溜まった膨大な魔力がはけ口を求めてその身体を内から引き裂いていたことでしょう。」

 淡々と侍医長が説明していく。

 「東方将軍殿の魔力が安定しないのは一重にその不安定な性故のこと―・・そこで陛下が自ら魔力回路の

 修復と、東方将軍殿の魔力の属性を根本的から作り変えることにしたのです。」

 「そんな!?―・・いくら陛下でもそのような危険なことを!?」

 セスが叫ぶ。

 同席する一同も、まさか・・と驚きの色が隠せないような顔色だ。

 元来、魔力というものはこの世界に存在するもの全てに存在しうる―・・一種の気(オーラ)のようなものである。

 そしてそれらは一つとして共通するものはない。

 各個に宿る魔力はその個にしか存在しえないのだ。

 だからその魔力を根本から作り変えるということはその存在自体を作り変えるということ。

 少しでも扱いを誤ればその存在は跡形もなく霧散する。


 「陛下だからこそできた所業でもあるのです。―・・魔界を統べられるということは全ての魔力を統べるという

 こと。ですが今回のようなことが何度でも出来るわけでは御座いません。」

 「そうですよ、陛下。一度リーシェの魔力を体内に取り込み、再びその身に返す―・・いくら陛下といえども荒

 療治にも程がありすぎます。このようなことはもうコレきりにしてくださいね。横で補佐するこちらの身にもなっ

 ていただきたいものです。」

 「まぁいいじゃないか。こうしてリーシェは無事なわけだし。終りよければすべて良しってな。」

 軽く笑う陛下に一同は軽く項垂れた。

 その微妙な空気を打ち消すように侍医長がゴホンッと咳払いする。

 「まぁ、東方将軍殿が女性に分化されましたのも、一度作り直された魔力と補正された魔力回路が安定され

 たことによる産物であることに間違いないでしょうな。」
 
 「さすれば、侍医長。これから先、リーシェが月の満ち欠けに左右されることやその命に危険が及ぶことはな

 いのだな?」

 「無論ですとも、南方将軍殿。」

 その言葉にやっと一同の張り詰めていた緊張の糸がほぐれていったようだ。

 誰からともなくほっと安堵の吐息が漏れていく。

 「本当によかった!!よかったですリーシェ様!!」

 「え?えぇ・・そうですね、セス」

 だがその穏やかになりつつあった空気を切り崩す物音がしたのはその直後のこと。

 「―・・バディ?」

 突然椅子から立ち上がったバディに皆の視線が集まった。

 「・・・・・」

 リーシェの呼びかけに一度目線を彷徨わせたものの、彼は無言のまま部屋を足早にでていってしまった。

 唖然とする一同を我に返らせたのは宰相の咳払いとパンパンという手を叩く音だった。

 「さぁ、一段落したことですしここは一度解散ということに致しましょう。リーシェも突然のことにまだ休息が必

 要なようですし・・・、宜しいですね?陛下」

 「あぁ。皆、ご苦労だった。」


   


                                    *





 皆が部屋を後にしてから暫くした頃。

 リーシェは一人露台に立ち、うっすらと昇り始めた朝日を見つめていた。

 その日の光に手をかざす。―・・心持ちこの手も小さくなった気がする。

 ファサ―・・と肩に僅かな重みが増えた。
 
 振り返れば、何時戻ってきたのか、そこには陛下が立っていた。

 「陛下・・」

 「まだ冷え込むからな。―・・"病み上がり"の身体なんだ、気をつけろよ?」

 「・・・・・はい」

 陛下はそのまま近寄ってくると横に立ち、リーシェと同じように朝日を見つめた。

 「・・・・・どうした?気に入らなかったか?」

 何が。とは言わなかった。だが何をさすかは一目瞭然だ。

 だがリーシェはとっさに「そんなことはありません―・・」と否定の言葉を出すことはしなかった。

 否―・・出来なかった。

 リーシェは応える事ができずにしばらくの間口をつぐんだままだった。

 必要なときに言葉を紡ぎだすことが出来ないこの口を呪ながら、自分の中で答えを探す。

 「陛下・・」

 「うん?」

 「陛下は以前、私に"死にたいのではないか"と仰られました。覚えておいででしょうか?」

 「あぁ」

 「そして私は”死にたいと思ったことなど一度もない”と申し上げました。」

 「あぁ、そうだな。」

 「でもそれは―・・真実、私の望むこととは違ったかもしれません。」

 手すりを掴む手にぎゅっと力がこもった。

 「やはり私は死を望んでいたのでしょう。"死にたくない"など只の詭弁に過ぎません。―・・私は死にたかっ

 た。」

 そう、死にたかったのだ。

 両性ゆえの逃れられぬ定めにより、滅び行く身体であると決められたあの日からずっと。

 じわじわと背後に忍び寄る死の影に怯えていた。

 苦しんで死ぬのが嫌だった。友と信じていた人に嫌われ、頼るべき一族に疎まれ、一人寂しく死んでいくのが

 嫌だった。

 かつて友と供に目指し、界の平和のため、故郷のため、敬愛すべき主君に仕えるべきためにのぼりつめた

 将軍という地位は何時の間にやら死に場所を探すべきためだけのモノになっていたのではないだろうか?

 誰かのために死にたい―・・馬鹿なことを考える。結局は自己満足のために死にたかったのだ。

 「何故ですか、陛下?」

 一度は呼ぶ声に導かれ、闇の深淵より戻ってきた者の、やはり自分はこの世界に祝福されていないのでは

 ないかという疑心にかられ、再びその身を闇に絡みとられた。
 
 だが陛下はー・・それを許しては下さらない。

 「不服か?」

 「・・・・・・・・はい」

 パン―・・と頬を打たれた。

 加減はしているのであろうが、打たれた頬はヒリヒリと痛む。
 
 だが目をそらすことはしない。陛下もこちらを見下ろしたまま瞳を揺らがせることはなかった。

 「リーシェ、お前は一度死んだ」

 「陛下?」

 「お前の望みどおり、一度リーシェは死んだ。―・・そして生まれ変わったんだ。」

 陛下の手が私の髪を一房掴む。

 「リーシェ、お前は生まれたんだ」

 「私・・は・・・」

 陛下は何を言っているのだろう。

 「リーシェ」

 陛下の低い声が私の名を呼ぶ。―・・恋人に囁くように、幼子をあやすように、何度も何度も。

 陛下の背後で朝日がようやくその姿をあらわした。地平線の向こうから真白い光が一気に溢れ、夜の城を照

 らす。


 「リーシェ、雪のようにまっさらで純真なリーシェ。見てみろ、世界はお前の誕生を祝福している。この世界へ

 ようこそ―・・ってな。―・・リーシェ、お前はここにいていいんだ。」

 そっと手に取った髪に陛下が口付けを落とした。

 「だから生まれたばかりなのにそんな悲しいこというな。いいな?これは命令じゃない。魔王ではない、俺自

 身としてのささやかな願いだ。」

 「・・・・・」

 リーシェは応えなかった。ただ、言葉のかわりに涙を。

 口にするよりも多くを語る涙を静かに流した。

 陛下の指が零れる涙を拭い去っていく。

 「馬鹿が。祝福されてなく奴が何処にいる?―・・笑え。笑顔は幸せは呼ぶぞ。」

 「・・・・陛下」

 「ノインだ。」

 「え・・・・?」

 「俺が魔王に即位した時に捨てた"俺"の名前。今は覚えている者も少ない。―・・リーシェ、名とは互いに呼

 び合うことで信頼し、気持ちを分かち合い、そして各個をそこに"存在させていくもの"だ。お前の中にこの名

 を刻むことを許そう。だから呼ぶがいいよ。お前がこの世界に祝福されていると実感したいならば俺のこの名

 を呼べばいい。そしたら俺はお前の存在を確立させるためにその名を何度でも呼ぶさ。―・・リーシェ」

 それは甘美な毒にも似た囁き。

 「ノイン・・様」

 「あぁ。」

 「ノイン様・・・・・・・・私はここにいてもいいのでしょうか?」

 「あぁ、いていいんだよ、リーシェ。」

 「はい・・・」

 リーシェの体が陛下の―・・ノインの腕の中におさめられる。

 もう闇には戻りたくないとリーシェは泣く。

 戻る必要はないとノインはその髪をすく。

 世界に祝福されて嬉しいのだとリーシェは泣く。

 おめでとう、とノインはその髪をすく。






                                    *






 どのぐらいの間そうしていたのだろう。

 リーシェはのろのろと顔を上げる。心地よすぎてそのまま寝てしまいそうだった。

 はっと今の状態に気付いたリーシェは慌てて陛下と身体を離し距離をとった。

 「何だ、もういいのか?俺は構わないぞ?」
 
 どこか嬉しそうな陛下にリーシェは顔を赤らめながら、謹んでご遠慮いたします。と応えた。

 「陛下、ありがとうございました。」

 「別に対したことじゃないさ―・・それより」

 陛下の指がリーシェの額をツン―・・とつついた。

 「お前、ハールウェイに将軍職を退きたいとかいったそうだな?」

 「えっ!?あっ・・・はい・・・・・」

 「却下。な。」

 「えぇ!?」

 「えぇっじゃない。当分はやめてもらっちゃ困るんだよ。あぁそうだ、新しい軍服つくらないとな。ハールウェイ

 が後でお針子達を寄越すっていてったぞ。」

 「あ・・はい・・」

 リーシェは気圧されて頷くと、観念しました、というように一つ溜息をつく。

 「―・・東方将軍リーシェ・ヴァン・ベトヴェニス・ラードン・シンシア、軍人として恥じるべきことなきよう、陛下に

 かわらぬ忠誠と剣を捧げることをここにお誓い申し上げます。」

 その場に肩膝をつき跪くと、陛下のマントの端に接吻を落とす。


 「・・・・・受けよう、その忠誠。その剣。その誓いまごうことなきものと確かに受け取った。」

 約定が交わされる。魂の約定。生まれ変わったリーシェが"初めて"交わす約定。

 「あぁ、そうだ。それともう一つ。」

 「?」
 
 「もう一人、お前の存在を確定してもらわなきゃいけない相手がいるだろう?」

 「え・・・?」

 「名を呼んでもらえ。それですべてチャラだ。―・・今のあいつからなら素直な気持ちが聞けるかもしれないぞ

 ?」

 陛下がだれのことを言っているのか―・・リーシェははっとなると、陛下のその手に背を押され走り出してい

 た。
 
 その後姿が見えなくなるまで陛下はその場で見送る。

 「敵に塩を送っちまったかな?―・・まぁいいさ」

 ふっと笑みをこぼす。

 「対等の立場にまで上がってきてもらわなきゃ張り合いがないってもんだ。―・・まっ勝つのは俺だけどね?」

 不敵に笑う陛下の笑みを見ていたのは空に輝く朝日だけだった。





                                 *





 走る。走る。

 息を切らしながらリーシェは走った。

 慣れない体と回復しきっていない体力にすぐにバランスを崩し何度も倒れては立ち上がった。

 「バディ―・・!!」

 やっとのことでバディを見つける。-・・なのに彼はこちらを視界に入れると背を向けていってしまった。まるで

 逃げるように。

 何故逃げる?

 ズキ―・・と痛む胸。

 このまま足を止めてしまおうか?追いかけず立ち止まって―・・そして私はまた壁を作るのか?

 (いや、だめだ)

 それではいけない。

 私は生まれ変わった。

 今までの臆病で卑怯で―・・自分の悲しみしか見えなかった私はもう死んだ。

 そうだ―・・だから私はいわなくてはいけない。ぶちまけてしまおう。

 「待ってください!バディ―・・!!」

 庭園を抜け、林の所までやってきた所で、やっと追いつきその腕を掴んだ。

 彼の体がぴたりととまる。

 「っ―・・離せ」
 
 バディは腕を振りほどこうと揺らす。

 だがリーシェは離さなかった。

 「私は貴方にいわなくてはいけないことがたくさんあるのです!!聞いてくれるまで離しません!!」

 リーシェの強い声に一瞬だけバディの抵抗が弱まる。

 その隙を逃さずリーシェはぐっと腕に力を込め無理矢理彼をこちらに振り向かせた。

 バディの顔は―・・凄く困った顔をしていた。見方によっては怒っている様に見えるかもしれない。

 驚き。怒り。戸惑い。

 リーシェはひるむことなく先を続けた。

 「バディ、私は寂しかった。」

 「―・・っ」

 バディが息を呑む。

 「悲しかった―・・私は皆の期待に応えられなかった。君の信頼を裏切ってしまった。凄く悲しかった。」

 悲しみの後に待っていたのは孤独と恐怖。

 「故に私は死にたかった。死んで消えてしまいたかった。」

 こんな私など消えてなくなってしまえばいいと。

 「悲しいけれど、君に嫌われるのはしょうがないから。だから私は君に嫌われる努力をした。」

 でも―・・でも―・・

 「私は私の悲しみしか見えていなかった。自分がとても不幸なのだと。この世界には私の居場所などないの

 だと―・・」

 でも、違った。

 「世界はこんなにも美しく暖かいのに。どれほど私の周りが暖かかったか本当に私は気付きもしなかった。

 壁を作っていたのは私自身だった。」

 今頃気付くなんて―・・本当に愚かで無知な私。

 「だから私は君に言おうと思う。君がどれほど私を嫌おうと、憎もうと、疎もうとも構わない。だが友として―・・

 かつての友としてバディ、私の名を呼んではくれませんか?」

 いつの間にか積み上げられてしまった高い壁。

 私はそれを―・・粉々に砕いてやろうと思う。

 名を呼んでほしい―・・たったそれだけの願いなんです。

 だがバディは微動だにしなかった。

 顔はこわばったまま。

 無理か―・・?

 やはり無謀なことだったのだろうか―・・と心の中に諦めと、不安が湧き上がったその時。

 「リーシェ。」

 名を呼ばれる。バディの声で。

 抱きすくめられる。バディの腕で。

 「リーシェ、お前は馬鹿だ。」

 名を呼ばれたこと、今までリーシェの手が触れることですら嫌がっていたバディがここまで密着してきたこと

 ―・・そして突然の"馬鹿"よばわりにリーシェは目を瞬かせた。

 「バディ・・・?」

 「何故俺がお前を避けてきたのか気付きもしないで―・・そうだ何時だってそうだ。お前は気付きはしない。」

 「バディ?」

 様子のおかしいバディにリーシェは戸惑いを隠せない。

 「バディ、一体どうしたのですか?何のことをいっているのか―・・」

 「お前は・・」

 身体を離そうと動くリーシェを逃すまいと更にバディの腕に力がこもっていく。

 頤(オトガイ)をつかまれ顔すら固定されてしまった。

 何故そんな顔をしているんだろう。何かに耐えているような不思議な顔。

 互いの呼吸が触れる場所にある―・・と

 「は〜い、そこまで」

 「!?」

 第三者の力で体が後ろへと傾き、そのまま引き剥がされた。

 「対等な立場まで登らせてやるとは思ったがな、ここまで許した覚えはないぞ?バディくん?」

 リーシェを引き剥がしバディの顔をにこにこと覗き込むのは陛下だった。

 目を丸くするのはリーシェだけではないらしい。バディも驚いたような表情で顔をしかめていた。

 「陛下?―・・?」

 つん―・・と服を引っ張られ振りかえる。

 「マリー様?」

 「おはよう、リーシェ。」

 にっこりと微笑むマリー。

 「さっ、色々と話したいことがあるのよ!あっちでゆっくりと私とお話しましょうよ。」

 「えっ?しっ・・しかしですね、マリー様、あのっ・・陛下とバディが・・」

 「いいのいいの。あんな馬鹿男たちは放っておきなさいよ。」

 「マリー様っ・・・」

 マリーに手を引かれリーシェは来た道を戻る。
 
 途中、何度か振り返りはしたものの、朝の爽やかな空気に包まれているはずの林の中には、なにやら不穏

 な空気を纏いながら不自然な笑みで話し合っている二人の姿が―・・いや、目の錯覚かもしれない。多分普

 通に話しているのだろう。・・・多分、きっと。

 「あぁ、そうだ。―・・ねぇ、リーシェ」

 心中、言い知れぬ不安にオロオロとしていたリーシェは、自分の手を引き前を行くマリーの呼びかけに反応

 が少し遅れる。

 「―・・はい。何でしょうか、マリー様?」

 マリーが足を止める。自然とリーシェもその場に留まった。

 金の巻き毛がゆれ満面の笑みが現れリーシェを見上げる。

 「おめでとう、リーシェ。大好きよ。」

 その言葉に一瞬キョトンとした顔を見せたリーシェではあったが、すぐにその顔に笑みがともる。

 「―・・はい。ありがとうございます。」

 


 もう一度。

 もう一度ここから始めて行こうと思う。

 


















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