一章  

    鳴神月

一。








夢を見た。

どのような夢だったのかと聞かれるとよく思い出せないような夢だ。

でも妙に現実的(リアル)で。

目覚めても頬を掠めていった桜の花びらの感触は忘れられない。

頬に手をやりながら鎖月(サツキ)は起きるか起きまいか迷った挙句、もう少し布団の中で惰眠をむさぼることにした。

今度は夢は見なかった。

時計に目をやると時刻は丁度六時半で起きるのには適当な時間帯。

布団から抜け出すと寝間着を脱ぎ制服に着替える。

窓の外を見ると外はどんよりとした曇り空が広がっていた

じめじめとした空気が梅雨の到来を告げる。

コン、コンとドアがノックされ母親の千代の声がした。

「鎖月ちゃん、おきてる?雨降りそうだけどどうする?駅まで乗せていこうか?」

「大丈夫。まだ降りそうにないし歩いていけるわ」

「そう?・・・・・ご飯出来てるから食べにらっしゃい」

「は---い」

母の気配が遠ざかっていく。

鎖月はかばんを持つと部屋を出て、リビングへと足を進める。

テーブルには父・洋介が新聞を広げ先に朝食をとっていた。

「おはよう、お父さん」

「鎖月か・・・・おはよう」

朝の挨拶を軽く済ませると父はまた新聞に眼を戻した。

「鎖月ちゃん、どう?学校は楽しい?」

母も席に着く。

「うん。そこそこ楽しいよ」

「そういえばお前もうすぐ期末らしいじゃないか。どうなんだ?勉強のほうは?」

新聞に目を落としたまま父がやぶからぼうに尋ねてくる。

「ちゃんとやってるよ」

「今度こそはもっと上位を狙えるようにするんだぞ。ほら、お前の友達の・・・・洋子ちゃんだったか?実力テストで一位

とったそうじゃないか。それに陸上で県大会も行ったとか・・・少しは洋子ちゃんを見習ったらどうだ?」

「あらでもあなた。鎖月ちゃんだってこないだ絵画コンクールで金賞をもらったじゃないの」

「絵なんぞ書けても何の役にもたちやしないさ。いい大学にいくためにはもっと学力を上げなならんだろう。わかって

いるな?鎖月」

「・・・・・・・・はい。・・・・ご馳走様でした」

鎖月は食器を片付けるとそのままリビングを後にし、洗面を済ませると玄関へと向かう。

靴を履いていると後ろから母の声がした。

「・・・鎖月ちゃん、お父さんもね悪気が合ったわけじゃないのよ?ただ・・・」

「わかってる。いってきます」

家を出るときにもう一度母が自分の名前を呼ぶ声が聞こえたが振り返ることはしなかった。

エレベーターで一階まで降りたところで傘を家に忘れてきたことに気付いたが今更戻る気にはなれなかったのでその

ままマンションを後にした。

駅まで片道10分の道のりを一人静かに黙々と歩いていく。

駅に近づくにつれ人も車の数も多くなってきた。

灰色の、まるで今の自分の心のような空を見上げながらも歩いているといつの間にか駅についていた。

改札をぬけ丁度ホームに入ってきた電車に乗り込む。

ちらほらと同じ学校の生徒が見られた。

「あっ鎖月はっけ〜ん」

ざわめく電車の中で少女の黄色い声が響く。

「おはよっ鎖月っ!!」

「おはよう、洋子ちゃん。」

癖のある茶色い髪をポニーテールにし、表情豊かに笑う可愛らしい少女は鎖月にとって唯一無二といっていいほどの

親友でもある安藤洋子だった。

「どうしたの?鎖月。暗い顔しちゃってさ」

「うぅん・・・・何でもないから。気にしないで」

「そう?ほらもっとスマイルスマイル!!ただでさえ鎖月はいつもおとなしいんだから。そんなに暗い顔してると不健康

そうに見えるよ〜。あっ!わかった!!きっとこの湿気のせいね!!くっそ--!!六月め!!私の鎖月に暗い顔させる

なんて最低ねっ!!」

一人で意気込んでいる洋子に鎖月は忍び笑いを漏らす。

「あっ!!何笑ってんのよっ!!」

「ごっごめんなさい・・・・でも洋子ちゃんが・・・・・ふふっ・・・」

洋子は苦笑すると

「じゃぁその笑顔を今日一日持続させること!!それで勘弁してやろう!」

といって鎖月の頬をつついた。

それから二人で他愛もない話をしながら電車を降り、バスに乗り換えて”私立北方女子高等学校前”で下車した。





教室に入ると皆が皆、まず洋子に挨拶をしてからその後ろを着いて歩く鎖月に挨拶をする。しかし挨拶といっても洋子に

する挨拶と鎖月にする挨拶とでは長さや暖かさが違った。

洋子には親しみをこめて挨拶をするのに、皆が鎖月にする挨拶は何処となく簡素で短い。

別にいじめを受けているというわけではない。

それはいつの頃からか自然に出来た「規則」だった。

−・・鎖月は洋子の「モノ」だから決して容易に近づいてはいけない。

洋子は人当たりがよく誰にでも好かれるが−・・少し感情的で・・いわば「女王様」的な存在だった。

だから機嫌を損ねてはいけない。

だから洋子の一番のお気に入りである鎖月を奪ってはいけない。

大げさなようだが「洋子」という存在はそれだけの力をもっていた。能力的にも、財力的にも。

容姿も学力も運動も洋子よりも劣っている鎖月が何故そんなにもお気に入りなのか。

鎖月はそれを知っている。

エゴなのだ。

自分よりも劣っているモノを側において庇護して、自分の地位を確立し、自分の中にある”正義"に属する"慈悲"とい

う心を満たしているのだ。

自分逆らわない自分だけの人形がほしいのだ。

(自己中心的ね・・・)

そう心の中で洋子のことを思いながらも鎖月は付き従う。

あえてはむかって自分から孤立する必要は何処にもない。

彼女の無駄で哀れなその行為に付き合うことで自分は特に何の支障もなく暮らせるのだ。

それにどれだけエゴが強い人間だとしてもやはり洋子は鎖月にとって大事な友人であることには変わりない。

彼女が自分を大切にしてくれていることに変わりは無いのだから。

平和が一番なのだ。

平凡が一番なのだ。

例え親にさけずまれようが、ふとした拍子にこの人形のような生活が苦に感じることがあろうが。

何事も無いほうがよいのだ。







唯一鎖月が一人になって心落ち着く時間というものがある。

それは放課後。

洋子が部活を終えるまでの間美術室で一人で絵を書く時間だ。


元々、運動系に力を入れているこの学校では美術部などの文系の活動は活発とはいえない。

今も,顧問すらいない美術室に唯一人黙々と画を描き続ける鎖月がいる。

今はまだ下書きのその紙には桜の木々が描かれていた。

夢で見る枝垂桜たちである。

一つ一つを思い出しながらそれらを描いていく。

画を書いているときは自分の世界に入れるから好きだ。

他から干渉されることも無くキャンパスに自分だけの世界を描くことが出来る。

別にこれで将来生活していこうなどとは思ってはいない。

そう、他の皆と同じように普通に高校を卒業して大学に入って会社に就職して・・・そのまま仕事を続けるのもいいし

結婚してしまうのもいいだろう。

とにかくその他大勢の一人として生きていく。

溶け込んでしまえばいい。

自分から合えて異物になる必要は無い。

皆と同じ色に染まってしまえば苦痛など何処にもないのだ。

「本当にそれで良いのですか?」

「え?」

一気に現実へと引き戻される。

首をめぐらせ背後を見やると男がいた。

「眉目秀麗」という言葉が頭に浮かんだ。

真新しいスーツを着こなしたその男は鎖月と目があうと、にこりと笑う。

人形のようにみえた顔が人になる。

「こんにちは。」

「・・・・・こんにちは」

いつの間にこの部屋に入ってきたのだろう・・?

自分の世界に無作法に侵入してきたその男をいぶかしみながら鎖月は小さな声で返事を返すと、再び作業へ没頭

した。

「美術部の人?」

「そうです・・」

「これは・・・枝垂桜ですね。よく描けている、どこでスケッチを?」

「いえ・・・・これは夢の中で見たものですから・・・・」

「へぇ・・・・・」

男は感嘆の声を漏らす。

鎖月は何だか恥ずかしくなって手の動きをとめる。

「どうかしましたか?」

「あの・・・・・失礼ですけども・・どちら様ですか・・・・?」

「あぁ、」

男は今思い出したという顔で申し訳なさそうに頭をかいた。

「僕としたことが・・すいません。僕は龍宮 雪人(タツミヤ ユキト)明日からここで教育実習なんですよ。」

「教育実習の先生・・・なんですか・・・私は保我鎖月です・・・3-B・・・」

「そう。いい名前ですね」

微笑むその顔をまともに見てしまい鎖月は赤面した。

その赤く染まった顔を見られないようにとキャンパスに向き直り手を動かす。

「保我さんはいつも一人で描いてるの?」

「はい。どうせ部員は私だけですし・・・」

「寂しくない?」

何げなく聞かれたその言葉を少しの間心の中で反芻する。

「・・・・・落ち着くから、いいんです」

ガタガタッと強風にあおられた窓ガラスが音を立てる。

「誰に従うことも無く、ただ自分があらわしたい、自分自身の世界を描いて作ることが出来るんです。何も考えずに

ただただ手の動くままに・・・父には否定されましたけどやっぱりこれが一番の私のよりどころ・・」

何故こんなにもスラスラと自分の考えをさっき会ったばかりの他人に話せるのか不思議だった・・。

「・・・現実は辛い事が多いですか?」

心配そうな龍宮の声に鎖月はつられてか悲しく微笑する。

「そういうわけじゃないんです。ただ-・・」

と、その時ドアが元気よく開かれた。

「鎖月ー!!迎えに来たよぉ!!帰ろ!!」

「洋子ちゃん・・・ちょとまって、すぐ片付けるから・・・・・アレ?」

「どうしたの?鎖月ぃ?早くしなよ。」

「ねぇ洋子ちゃん・・今ここにいた男の先生知らない・・?」

いつの間にか龍宮の姿がいなくなっていた。

「え!?そんな人いた?」

「うん・・・・今まで話してたから・・」

(帰ったのかな・・・?)

鎖月が他の事に興味を示すのが面白くないのか洋子は眉を顰める。

「もう!!そんなことどうでもいいじゃん!!帰るよ!!」

「あっ、まって!!」

荷物を手にして洋子のあとを追う。


クスッ−・・


美術室を出る直前、誰かの含み笑いが聞こえた。

鎖月は振り返り美術室を見渡す。

そこには誰の姿もない。

「鎖月-!!いくよー!!」

廊下の端から洋子の苛ただしい声がした。

「あっうん!ごめんなさいっ今行くっ・・・!!」

鎖月はあわてて洋子の元へと急いだ。

やがて二人の気配が完全に去ってから。

影が差した教室には一人の男の姿があった。

「まったく・・貴女という人は・・・・・・相変わらずでいらっしゃる」

男は鎖月の書いていたキャンパスの前まで行くと忌々しげにそれを睨み付けた。

「急がねばならんようだな」